アダルトチルドレンのためのアンダンテ

過去の事も、それに対する後悔も、こうなりたいってゆう希望も、言葉にし落とし込んで眺めてみることで、ちょっと整理がつくかもしれない。

怒 という感情と出会す度に

自分に対する相手の怒りや苛立ちの感情を悟る度に、なんだかパニック状態に陥り、動悸がして、冷静でなくなり、すごくすごく、しんどい状態になってしまう。

普段は自己肯定感と自己嫌悪感が、微妙なバランス関係のもとに存在していて、そしてそのバランスがある日一気に崩れて自己嫌悪感のほうに傾いて、その衝撃に耐えられなくなってるのかもしれないし、
もしかしたら、以前の対人恐怖症の後遺症的なものなのかもしれない。
もしかしたら、見捨てられ不安とかそういったものなのかもしれない。

本当にしんどい。
でも結局自分の目の前のものを乗り越えられるのは、
自分しかいないから。
自分で何とかしてくしか、恐らくないんだろう。

相手に受け取ってもらうということ

例えどんなに愛や感謝の想いが大きくても、日常的にはそれを小さく分けて小出しにしていくのがいいと思う。

そうすれば、相手も受け取る事に過度なエネルギーを費やさない。

 

物を受け取ってもらうのと同様に、心を受けとってもらうにも、相手の心に受け取るためのスペースが必要なんだと思う。

だから大きな想いを受けとって貰うには、通常時間を要するのだ。

日常的に抱いている愛や感謝の気持ちは、相手がわざわざスペースを確保しなくとも、ありがたく受け取れる程度の大きさのほうがいい。多分渡した時は小さくとも、時間が経った時に、相手の心の中で大きなものに再構築されているはず。

 

どんな質のものを渡せるかも、きっと考慮したほうがいい。

ラクタを沢山与えられたところで、相手はそんなに嬉しくない。嬉しくないものをしょっちゅう貰っていると、多分相手は疲れてしまうのだろう。

 

魅力的なものを受け取って貰うためには、自分にも能力が必要なんだと思う。だから自分を磨く事に力を注ぐ事は、相手に洗練された心や言葉を引き出す為にも大切なのだろう。

独りの時間は、必ずしも孤独で惨めなものではない

人と人の間には、必ず相性というものがあって、

人の個性や価値観は多様である以上、そこに合う合わないがあるのは仕方がない。

 

そんな言葉、だれでも一度は聞いたことがあるんだと思う。 

ただ、それで相手と近づくことを諦め、「独り」を選ぶことに、どこか自己嫌悪感を抱いてたりもした。

 

そもそも自分自身を否定的にしか捉えられない時、「相手と合わない」状況が生じると、それは相性が悪いのではなく自分が悪いのだと、考えてしまうようになった。

自分を責めて相手に無理やりにでもあわせに行く行為は自らを疲弊させ、何処かで限界に到達し、結局自分の殻に閉じこもるようになる。

自分が好きだった音楽や歴史に没頭する時間は、辛さを忘れられる時間だったけど、そうしてどんどん自ら独りを選んで行く自分の事を、惨めで、情けないと感じてた。

 

でも、冷静に考えられる今、そのときの自分に言い聞かせたいのは、

 一人でいる時間は、自分自身と向き合って、自分自身の価値観に従って、自分自身の世界観をより深めて、自分の内面を充実させることに、集中すればそれで良いんだ、ということ。

そうすれば、いつか本当に自分に合う人と出会ったとき、その人との時間は、今出会うよりももっと、充実したものになるはずだから。

 

自分自身を形作っていくには、結局一人で自分を見つめなおす時間というものが必要で、人のペースではなく自分のペースで、ゆっくりゆっくり、自分にとって価値のあるものを吸収していく必要がある。

それは本から得られるのかもしれないし、音楽の音色からかもしれない。絵画の美しい色彩からかもしれないし、旅で出会う壮大な風景かもしれない。

そうやって、自分を深めていく時間は、決して憐れなものではなく、尊い時間であるはずで。

その選択をする事を、何も怖がる必要はない。

 

独りの時間は、必ずしも孤独で惨めなものではない。

それは自分自身を醸成させる、満悦した時間。

感性の違いというもの

自分の両親が意見の対立を起こしていた時、

一方が譲歩して、他方にあわせてあげることが、

どうしてできないのかがわからなかった。

 

両親は、自動車を大型車を買うか軽自動車を買うかで揉めていた。

両親は、本を新品で買うべきか中古で買うべきかで揉めていた。

両親は、ちょっとした言葉の使い方で言い争っていた。

 

どこかの会社の社長が言っていた。

人は尊厳で生きている、と。

お互いに否定しあう夫婦は、必死に自分の尊厳を守ろうとしているのだろう。

自分を否定する相手を肯定することは自分の否定となる。

そこに耐え切れなくなった時、たとえ些細なことでも相手のことが肯定できなくなる。

 

それは「歩み寄る」が無くなる瞬間なんだろう。

人間関係への過剰反応

自分は人とうまくやっていけないという自己否定感が根本にあるから、

人とうまくいかなかったときや人を傷つけたかなとおもったときに、

必要以上に、過剰なまでに、自己嫌悪に苛まれる。

この過程が本当につらいんだ。

自分の行為の否定ではなく、人間的に否定する。

自分のその時の行為でなく、過去からさかのぼって自分を否定する。

自分はダメだ

自分はダメだ

自分はダメだ

止まらない。

1人で突っ走る孤独

私は昔から、何か思いつくと、次から次へと色々な事が思いついてしまい、

やってたこともやるべきことも、

すべて放棄してそこに向かってしまうタイプだった。


夢中になってる時ってすごく快感なんだけど、


例えば苦しいのが集団行動であって、

ふと気付いた時に自分の周りに誰もいない事を悟ると、

ものすごい孤独を感じる。


また1人で勝手に突っ走って周りを疲弊させたんだなあって。


ただ、周りから見たらどう考えてもポジティブで、きっと自己否定感がこんなに強いとは誰も思っていないってことを、知ってるから、

この弱音を誰にも話せない。


他の人も、同じ辛さを抱えているのだろうか。

人はみんな孤独なのかな。



変わった子は「違う」って見られる

周りと興味関心が合わない子、自分の気持ちを表現するのが苦手な子、周りのこと同じようなコミュニケーションの取り方ができない子、こういう子は「変わった子」として見られることが多い。

そして、誹謗中傷(いじめ)の対象になることも多いと思う。

こうした「変わった子」って、いわゆるその子たち独特の周りのことの「違い」ゆえに、うれしいとかかなしいとかくやしいとか、

そういう感情の感じ方も普通の人と違う、”自分たちとは違う”と思われてるんじゃないかとおもう。

 

だから「ばか」とか「死ね」とかいっても、こいつにはいっても 大丈夫 と思われている。

言ってもこいつは傷つかないし怒ってもこないし泣きもしない。

 

そうやって、喜怒哀楽も普通の人とは違うと思われているんじゃないかな。

 

たしかに私も、怒りとか悲しみとかを、人より感じ方にタイムラグがある。

だから言われた瞬間ってあんまり怒れなくて、なんかへらへらしてしまって、ずっと時間がたってから実は悲しいと思っている自分に気が付く。

そんな経験を何度かした。

だから確かにご認識の通り感じ方は違うのかもしれないけど、それでも普通の人と同じように傷ついたり怒ったり泣いたりするんだ、人間だから。

 

普通より「違う」が多い子は、「同じ」に気付いてもらえない苦しさを、

ずっと抱えているのかもしれない。

躁鬱傾向を自覚する

気分が盛り上がって、あほみたいにポジティブになって、

何の疑いもなく突き進んで、

そして何かの事象をきっかけに、金槌で頭をたたかれたようにして一気に落ちる

何に関してもネガティブにしかとらえられないようになって気持ちが疲弊していく

 

医者に「躁鬱傾向にある」と言われてきて、全然自覚できなかったけど、

最近これのことかもしれないとおもう点がある

 

今の状態はとにかく自分のすべてを否定したくなっていて、

いろんな人が自分を蔑んだり責めたりしているように感じて、

つまりは非常につらいのだ

常識的な在り方

時代の流れの速さとか

人の歩く速さとか

 

いろんなものに巻かれてながら生きていくのに少し疲れてきた

 

普通の人のように既定路線で生きていけない自分。

どうしても、どうがんばっても、人が選ばないものばかり選んでしまう。

そしてその結果誰よりも苦労する。

 

もっと「普通」の人に慣れてれば、

普通の人が、普通に賢く選択する選択肢を、普通に選べてれば、

どれだけ楽だろうって、どれだけ効率よく生きられるだろうって、

いつだって思う

 

どう考えたって効率悪い生き方しか、

この馬鹿な頭は選択しないんだ

 

 

時間がないと焦る

過ぎていく時間に焦る

そして焦っている自分また焦る

 

 

選んだ道を、こっちでいいのかこっちでいいのかって不安になりながら進んでく

でもたぶん自分は何度もどったとしてもやはりこの道を選んでしまうんだろう

いい人といると

自分に気遣ってくれて、

その人自身のことは、その人だけで完結できる様な自立した人で、

正義感があって、

言うことが一貫してて、

筋も通ってて、

優しくて、

そんな風な人だから誰からも好かれて誰とでも仲良くできる人なんだけど、なぜかその人といるよりも、

ちょっと居心地悪くて、あんまり落ち着かない。

ダメなとこがあって、あんまり人に気遣いも出来なくて、そんなに優しくもなくて、ってゆう人といる方が、安心してしまう。

何でだろう。

対人恐怖症を経験した時から

高校生の時、「対人恐怖症」に当てはまるような精神的状態を経験した。

なぜ ”対人恐怖症だった”って言わないのかというと、当時精神科に行って診断を受けたわけではなく、「対人恐怖症」ってゆう言葉すら知らなかったから。

 

クラスで一緒の子たち、初めて会話する同級生、部活の先輩・後輩・同期、電車に乗った時に隣にいる人、コンビニの店員さん、全ての人の視線が怖くて、全ての人に嫌われていると思っていた。相手を避けることが相手のためだと思って頑張って離れようとしていたり。会話では、友達同士が盛り上がっているときは、自分が会話に入ると邪魔をしてしまうと思って、できるだけ言葉を発しないようにしたり、会話を振られると頭が真っ白になって何て返事すればいいかわからなくなったり、会話が終わるころには気づかれでヘトヘトになっていたり。

そんな様子だと当然周りも「あの子なんか変だ」と気づくようになり、自分の事を避けるようになる。

その事実が、「やっぱり、自分は嫌われている」という確信に変えていった。

 

多分きっかけは中学生の時の人間関係。

いじめとも言えるかもしれないけど、ニュースで聞くようないじめとくらべたら全然深刻でなく、死ねとか近寄るなとか言われたり、聞こえるように悪口や誹謗中傷を会話されたり、修学旅行のバスの席をずっと蹴られたり、とか。直接的に暴力を振るわれることがなかっただけ、ましだったんだろうな。

それでも、ある日を境に、幼稚園の時からずっと友達だった人も、昨日まで笑顔で接してくれた人も、態度ががらっとかわる。この人もか、この人もそうか、と、何度も何度も悲しくなる感覚は、辛すぎてここ暫く思い出すのを避けていた。

正直自分がわるかったという気持ちもあって、「いじめられている」として被害者面するのに罪悪感があった。だからといって何されても仕方ないという事にはならないかもしれないけど、それでも言い出せなかった。

毎日学校にいって下を向いて耐える。時には保健室に逃げる。

そうして過ごしていくうちに、かろうじて何人か会話できる人を見つけたり(特に同じ”被害者”側の人とか)して、そうして3年間がおわった。

 

受験の末に入学した高校は、中高一貫校だった。

中学校から上がってきた生徒と高校から入学する生徒が混在する入学式。

高校から入る自分は明らかにアウェーで、なぜかその状況が中学のときに一人で下を向いて耐えていた状況を彷彿させて、人と話すのも、人と話さないで時間が過ぎていくのも、怖くなった。

冒頭で書いたような恐怖のサイクルは、3年間ずっと続いた。そして中学でも高校でも人間関係がうまくいかないという事実は、自分への信頼をどん底まで突き落とした。不思議なもので、恐怖に怯えてガチガチの警戒態勢にあったはずなのに、愛そうよく話しかけてもらうことが暫く続くと、逆にそこに依存したいという気持ちが生まれて、たぶん相手に負担になるくらいその人と仲良くなろうとしてしまい、結果的に離れられてしまう事とかもあった。それを経験すると今度は、近づいてきてくれる人が現れても、「いつ、自分はこの人に嫌われてしまうんだろう」という気持ちで接していたり、一定程度仲良くなると無意識にその人を避けてしまうようになってしまったりしていた。

ただ、自分の欠点や思いやりの無さが露呈してしまう事があっても、見捨てずに話しかけてくれる一握りの人たちがいて、私はその人たちのおかげで高校も最後まで通うことができた。

 

見られてもいないのに人の目線に怯えたり、まだ話してもいないのに人に嫌われる事を怖がったりする状況は、大学に入ってもしばらく続いた。社会人になった今でも、初対面の人と話す際には、まず「自分が嫌われている」という前提をいつのまにか設定して会話してしまっている感覚はあったりする。それでも、安心できる人との出会いの積み重ねによって、自分は今の状態までこれたんじゃないかな。

 

対人恐怖症の症状としての”自分は嫌われている”という先入観に加えて、たぶん、本当に私は自分勝手なんだと思う。本当に、人に嫌な思いをさせて実際に嫌われてしまったことが、今までたくさんあるんだと思う。

だから自分もどうしたらやさしい人になれるんだろうとか、どうして自分は人に嫌な思いをさせてしまうんだろうとか、いっぱい考えて、ノートに書きだして、色んなシーンを公開したり反省したり、次はこうしてみようと思ったり。その時は無駄な足掻きを繰り返しているように思うんだけど、もしかしたら、ちょっとは効果があるのかもしれない。

無価値

仕事するって、何だろうな。

例えば自分が相手よりも何か才能をもっていて、

その相手がそのサービスを提供するよりも、

お金を払って代わりにその才能を利用した方が

相手にとって時間的な節約と正確性や専門性の担保になるときに、

初めて自分は対価を手にする権利を得ると思うんだけど、

自分みたいに何かを理解するのに誰よりも時間が掛かって、常に相手よりも劣ったことしかできなくて、記憶力も理解力もなくて。

相手に「自分でやった方が早い」と思わせてしまう様であれば、自分に付加価値なんてないんだろうな。

むしろ、自分の面倒を見る時間を相手に取らせてしまうくらいなら、自分は居ない方がましなんじゃないだろうか。

言ってくれなきゃわからない

人の話を聞き入れない人ほど、「言葉で伝えてくれないとわからない」と言う。

いざ伝えたときに、「あ、言わない方がまだマシだったな」って思わせる様な反応ばっかしてるから、徐々に徐々に伝えてもらえなくなってる事に、多分気づいてない。

ゆらゆらジェンガ

色んなことに興味を持つと、

優先したいことが頭でっかちに増加してって、

不要だと思えてくる事をどんどん省く様になるんだけど、

多分その中には、本当は省いちゃいけない、基本的なことも含まれていて、

省くという行為がエスカレートするにつれて、

自分の行動に「抜け」が目立つ様になる。

高く高く積み上がって、あるタイミングで一気に崩れるジェンガみたい。

その仕組みが分かった今でもなお、

色んなことに興味が飛び散るこの脳みそを

どう変えていけば良いんだろう。

自分と同じ様な人が居るとしたら、

その人はどうやってそれを乗り越えてるんだろう。