アダルトチルドレンのためのアンダンテ

過去の事も、それに対する後悔も、こうなりたいってゆう希望も、言葉にし落とし込んで眺めてみることで、ちょっと整理がつくかもしれない。

アダルトチルドレンを知ったとき

私が「アダルトチルドレン」という概念を知ったのは、大学生の頃だった。

親のことで苦しんでいたあの頃、大学で出会った一冊の本「愛しすぎる家族が壊れる時」。

あの時の私にとって、私は確実に”愛されていた”。

脅迫的ともいえる愛を注ぐ両親に対し、それを受け止めきれなく必死で逃げる私は、”親不孝”という罪悪感に苛まれていた。

虐待という文脈の中で出てくる親の姿は、必ずしもシンデレラや白雪姫にでてくる継母のように、図々しく、明確な悪人ではない。

少なくとも母親は私の目には、弱弱しく、悲劇的で、かわいそうな親だった。

 

虐待という言葉を使うことは、今でも自分を苦しめる。

実は私は、親には殴られて負傷したわけでもなければ、性的暴行を受けたわけでもない。ただ、彼女から日々発せられる否定や怒りと、温かさのかけらもない両親の不仲による苦しみは、私を絶望へと追いやった。禁じられた怒りや悲しみは、いつしか感じることができなくなった。そして忘れたころに制御不能な混乱を招く。

きっと被害者を装い同情を誘うことが価値を持つときは一生来ないだろう。ただそれでも目をそむけてはいけない事実がここにある。

 

たぶん、他にもいるのではないだろうか。

本当はすごくつらかった。本当は苦しめられていた。

それでも自分はアル中や暴力癖があるわけでもない、ふつうの”いい”両親に育てられた―。

そう言い聞かせることで、真実を捻じ曲げて認知してきた人たち。

 

私がアダルトチルドレンを知る過程で知ったのは、支配的で過干渉な親を持った子供は、アルコール中毒や暴力によって虐待を受けた子供と同じような傷を負って育っているということだった。

 

精神的な虐待。そればしばしば客観的に証明しにくく、当事者の親によって容易に「そんな事実はなかった」こととされてしまうかもしれない。

自分自身も、今でも自分の自意識過剰なのではないかと迷いながら、今この文章を書いている。

この迷いの過程も含めて、アダルトチルドレンと向き合うということなのだろう。

苦しくてつらいけど、前向きにブログを書いているアダルトチルドレンの方々もたくさん見てきた。自分もそうなれるように、一歩ずつ進んでいきたい。